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第二章 冬の章「贈り物として」

3.ホワイトアウト

 翌日は、深い雪になっていた。岸上家では由梨ちゃんが通っている病院で薬をもらう日だった。6人乗りの4WD の後部座席にチャイルドシートがあってそこにたっくんを乗せ、隣に由梨ちゃんが座った。岸上さんが孝志に声をかけた。
「助手席に乗るかい?真っ白な中を走るのは、ちょっとこわいけど面白いぞ」
 奥さんも笑って同意した。
「そうね、私は真ん中に乗るから、助手席どうぞ。暖かいし」
 孝志はうなずいて助手席に乗り込んだ。手にはテレビゲームを持っている。こんなときくらいは外を見ればいいのに、と岸上ママは思うが、取り上げ ることはしなかった。車はゆっくり走り出す。地面は真っ白だ。木々の枝も白く化粧しているようだ。車の中から見ると、白い空から降りてくる雪の粒が、薄い 灰色にも感じられる。あとからあとから、無限に続く雪の乱舞だった。孝志もさすがに前を見ていた。目の前が、ただ、ひたすらに白い。ワイパーが激しく動い ていなければ、白一色の世界に見えてしまうかもしれない。対向車もゆっくり走っている。すれ違うときは軽くライトを交わす。雪の中でけものが行き交うよう だ。孝志は、ふと、自分でこの雪の中を運転してみたくなった。この雪の中を、一人で進むことができたら・・・・岸上さんの運転をそっと見る。完全な自動制 御のオートマチック車だ。奥さんも運転しやすいように簡単な設定にしてあるんだろう。孝志は、メカに興味があって、何度か勝手に家の車で外出したことが あった。もちろん無免許なので遠くまではいかなかったが、サングラスをかけて年齢をごまかし、車を走らせるのはスリルがあった。
 病院へ着いて、岸上さん一家はにぎやかに車を降りた。孝志はもじもじしていた。
「どうしたの?着いたよ」
 岸上パパが声をかけたが、孝志はテレビゲームの画面に熱中していた。
「僕、行かない。知らない人の多いところはいやだ」
 岸上さんは一瞬困ったような顔をしたが、気を取り直して言った。
「そうか、わかった。じゃ、ヒーターつけていくから、ここで待っていてくれ。十分もかからないから」
 後部座席でママと由梨ちゃんがなにか話していたがよくわからなかった。一家が車から遠ざかると、あたりは急に静かになった。カーラジオから流れ てくるニュースだけが、この真っ白な世界の孤独な生き物と、世界とをつなぐ唯一のメディアに思えた。孝志は、ゆっくりとそれを切った。
 あたりを静寂が支配した。助手席から、隣の運転席へ移る。ブレーキを踏んで、エンジンをかけると、振動が足に伝わってきた。自分でコントロール できる何か。雪原のけもののように、自分のリスクで動き、止まり、進むことができる何か。ゆっくりとアクセルを踏む。車がそろそろと動き出す。駐車場を出 て、道を走り出す。どこへ行けば良いのか、そんなことは知らない。前へ、前へ。できるだけ早く町を離れたい。人のいないところへ行きたい。一人になりた い。どのみち、小さな町である。何分もいかないうちに、道は林の中へ入った。白い。地面も、両脇に積み上げられた除雪後の雪の壁も、そして目の前の空間 も、何もかもが真っ白だ。道の両脇にときどき見える赤いポールと、壁の向こうの木立が見え隠れしなければ、方向感覚がわからない。気づくと、対向車も、こ の道を行く車も、ほとんどいなかった。戻れないかもしれない。雪の中で運転したこともないし。そんな思いもよぎる。だが、孝志にはそれがむしろ嬉しかっ た。戻らなくてもいいんだ。あの東京の暮らしにも。学校にも、家族にも。もういい。なんだか、疲れてしまった。勉強にも、部活にも、楽しいことなんか何も ない。
 岸上家の暮らしは、まだよかった。誰も学校に行けとか勉強しろとか言わないし、でもそれも、きっと僕の本当の暮らしなんかじゃないんだ。僕はこ うやって、ふらふらと漂流しながら一生を終わるんだろう。別にいま終わったって、何の違いもない。
 林の中の道は、次第に細くなっていく。山の中へ向かっているのだろう。だんだん、除雪されていない場所が増えてきて、4WDでも、あえぎながら 走っていくようになってきた。ワイパーはしきりと重い雪の塊りをかき落とそうとするが、それもかなわないくらい雪が深い。次第にハンドルを取られるように なった。そろそろ戻ったほうが、という思いがちらりと頭をかすめたが、それを振り切るように孝志はアクセルを踏んだ。その瞬間、後輪が滑って、林の中に車 体が突っ込んでいた。
 「わっ!」深い雪の中に頭から飛び込んだ形になって、やぶにひっかかって止まったらしい。フロントガラスは雪の中だ。ワイパーが止まってしまっ た。白い。目の前が、ただ、白い。ホワイトアウト。そんな言葉を思い出す。意識が、空を漂っているのか、それともここにあるのか、わからない状態なのかも しれない。もう戻れない。このまま、ここで死ねればいい。もういいんだ。もう、何かを探す必要なんかない。そのために努力なんかしなくていい。いい学校に 進んだって、いい会社に入ったって、父さんみたいに、あまり幸せにはなれないじゃないか。僕は、未来に追われていた。未来は、追うものではなく、僕は未来 に追われて今を苦しんでいたんだ。
 風が強くなってきた。運転席のドアはまもなく開かなくなるだろう。ヒューイ、ヒューイと、遠くの林の山鳴りが聞こえる。その中に、不思議な声が 混じっていた。どこかで動物が鳴いているのだろうか?か細い鳴き声が聞こえる。孝志は、耳を澄ませた。近い。孝志は思わず立ち上がった。車の天井に頭をぶ つけた。いてっ!運転席からまったく見えない位置にあるチャイルドシート、その毛布の下に、もしかして…。孝志は狭い車内を苦労して後部座席まで移動し た。毛布の下に、たっくんが目を覚まして、か細い声で泣いていた。冬山の夕暮れは早く、気温は徐々に下がりつつあった。

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