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第一章 秋の章「温泉地の秋」

2.遼子さん(その2)

 遼子さんが、街の中を簡単に説明してくれるというので四人で街へ出た。観光協会から預かってきたという小さな機械を貸してくれた。携帯電話と PDAがちょっと簡単になったような感じだ。位置情報を把握するGPS機能やカメラもついているらしい。
「ルイカって名前です。Rural Information Communicator Assistanceの略だったかしら?偶然ですが、アイヌ語で「橋」という意味もあるそうです。これがあると、街の中を歩くのが楽しくなりますよ」
 古い町並みを通りかかると、そのルイカがふわりと黄色く光る。
「観光案内が出ているようですね。お読みになりますか?」
 祖母がルイカを手に取ると、祖母の視力に合わせて映像や文字が出てきた。それが空中に像を結び、実際の街の上に、重なって見えてくる。ホログラ フィーというやつだ。結構、きれいなデザインで読みやすい。英語や中国語でも情報が出てくるという。事前に伝えておいた自分の身体情報や文化的背景など、 ニーズに合わせて情報は編集されて提示されるのだ。遼子さんのようなコンシェルジュの役割を果たす人がいてこそのサービスだな。他の街でもこんなサービス あるんだろうか。
「へえ、ここって、寛永年間の町並みが保存されているところなのか」
「おや、明治時代の写真と重ねてみることもできるそうですよ。やってみましょうか?」
 祖母が画面上から指示をすると、今の町並みに明治のころと思われる映像が重なった。セピア色に当時の空間が再現され、なかなかレトロな雰囲気 だ。バーチャルリアリティもこういう使い方をするのは粋だなあと思う。
「当時の音や映像も、これは作り物ですが、呼び出すこともできますよ」
 遼子さんが話す。はまってしまってなかなか先へ進まない人も多いという。シニアの中には、自分の子供時代に時間をセットしたまま、ずっと街を歩 き回る人もいるらしい。なんだか翼には、そんな昔のことを思い出しても意味がないような気もするのだが、きっとシニアにとっては必要なことなのだろう。遼 子さんはどうやら、それがこの土地を知るうえで大切なことだと思っているらしい。祖父母に、時代のさかのぼり方を何度も丁寧に教えている。根気のある人だ なあ。携帯の使い方でも、三回同じことを聞かれたらもう面倒になってしまう翼には、あまり年齢が違わないはずの遼子さんがとても大人に見えていた。

 もう少し歩くと、今度はルイカがまた光った。今度はピンク色の光だ。
「どなたかが、この場所でメッセージを残したようですね。見てみませんか?」
 遼子さんがまた使い方を教える。どうやら、昨日、この場所を通った旅行者が残したものらしい。『この角を曲がったところに、萩の花が固まって咲 いていますよ』。写真も添えてあった。翼たちが都会でやっているGPS写真付きメモなのだけど、ずいぶんシニアにも使いやすく出来ているらしい。道の先へ ルイカを向けると、そこかしこに、ふわりとピンクの光が見える。ここを訪ねた人が書き残していった伝言や、ここで詠んだ俳句が入っているのだという。どう やら、このルイカは、情報受信と発信のツールとしてよくできたもののようだ。
「もし、ルイカに出ている情報に共感したり、納得されたら、その金色のボタンを押してください。賛成ボタンとか共感ボタンってまちの人は呼んでい ますけど、そうやって集まったデータを後から共有することも出来るんですよ」
 遼子さんが教えてくれる。どうやらこのルイカ、かなり高度な使い方もできそうだが、最初は簡単なものから使うように伝えているのだ。ITが苦手 な祖母も不思議といやがっていなかった。

 その晩は、ログハウスに引かれた温泉に入って寝た。白いお湯だった。祖母はずいぶん長いこと出てこなかった。祖父は、
「美肌の湯だって言ってたぞ」
と、悠然と日本酒を飲んでいた。ううむ、七十二歳で今更、美肌ねえとも思うけど、女性の心理ってまだまだ全然わからないので、ここでコメントする のはやめておこう。
 翌朝、もう一回遼子さんがやってきた。ベッドの状況をチェックし、体調を調べる。データを見ながら、遼子さんのきれいな眉がわずかに曇った。
「あの…」
 少しためらいながら、遼子さんは祖母に話し掛ける。
「すみませんが、一度、ベッドに横になっていただけませんか?」
 僕は祖父と二人、寝室から追い出された。少し不安になる。どこか体調が悪いのだろうか?昨日、長くお風呂に入りすぎた?
 遼子さんはしばらく寝室で祖母と話し合っていたが、しばらくすると、祖父と翼を寝室へ呼んだ。
「東京と同じ仕様のベッドを処方させていただいたのですが、奥様の腰には少し負担がかかっているようです。今、奥様にお願いしてベッドに横になっ た状態のデータをとらせていただいたのですが、もし可能であれば、今夜一晩、睡眠中のデータログをお取りしてもいいでしょうか?ログを拝見した結果、問題 があるようでしたら、すぐにベッドをお取替えさせていただきます」
 翼は驚いた。たった一週間の湯治で、そんなところまで気にするものなのだろうか?だが、祖母は自分で結論を出した。
「ええ、お願いします。せっかく湯治に来たんですから、健康になるために手を貸してください」
 寝ている間のデータログのような情報は、あくまで個人が自分の意思に基づいて同意した場合のみ、許可した相手に開示される。いくらITが世界の すみずみに普及して、あらゆるバイタル情報が自動的にとれるようになっても、基本は本人の同意なのだ。翼は、なんだか、東京にいるときとは、少し雰囲気の 変わってしまった祖父母を不思議な思いで眺めながら、東京へ帰る列車に乗り込んだ。遼子さんがいるから、きっと大丈夫だろう。一週間したら、きっと彼女が この列車に二人を乗せてくれるはずだ。

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