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第一章 秋の章「温泉地の秋」

3.東京の朝

画像:イメージ写真  空は青かった。いや、青く見えていた。六本木の高層マンションの窓には、晴れた日には空をより美しく見せるためのカラーコントロールが入っているのだ。 翼はそこで快適に生きている。暑くもなく、寒くもない。空はきれいだし、煤煙もスモッグもここにはこない。翼のきらいな虫も、鳥の落し物もない。
 高布町の温泉から戻って六日目の朝だ。翼はシリアルにヨーグルトをかけて朝食にしていた。このところ合コンが続いてカロリーを採り過ぎている。 少し控えないと。父はとっくに出かけていた。母は朝の太極拳に行っている。毎朝、仕事前の日課になっているのだ。祖父母がいなくなってから、朝ごはんを作 るのが楽になったって本音をもらしていたな。りんごを半分食べたところで、電話が鳴った。
「あ、おばあちゃん、僕だよ。楽しかった?明日戻るんでしょ?え、何、もう一回言って。は?帰らないって?どうして?具合でも悪いの?」
 祖母は、はっきりとした口調で言った。
「帰りたくないの。ここでずっと暮らすの」
 窓から射す朝日がゆるやかに食卓のうえを照らす。りんごの半分がオブジェのように影を作る。翼はなぜか、ルイカを持って街の中を歩き回っていた ときの光景を思い出していた。祖父母は、あの機械に、何を見、何を残したのだろうか。

 翼は電話を切った。理由はないと言い張る。とにかくここで暮らしたいのだと、それしか言わない。まずは、両親に連絡しなくちゃ。職場で電話に出た父は明 らかに不機嫌だった。
「そんな、姥捨て山じゃあるまいし、どんなところか知らんが、ほっとくわけにもいくまい。週末はゴルフの予定だったが、迎えにいくしかないだろ う。列車のチケットを取っておいてくれ」
 母は、携帯に連絡したときは、一瞬、嬉しそうな雰囲気の声を上げた。でも、家に戻ってきたときは、かなり沈うつな表情だった。
「この家がそんなに居心地悪かったかしら。わたし、すごく気を遣っていたのに。親戚からきっといろいろ言われるのよね」
 仕事に出る準備をしながら、くよくよと先のことを思い煩っているようだ。
翼は携帯で三人分の列車の予約をして家を出た。あのログハウスで、はしゃいでいた祖父母を思い出す。なんだか、両親とも自分のことばかり心配して いるようで、少し祖父母がかわいそうな気もした。学校へ着いたころ、遼子さんに電話をかけてみた。僕らの家庭の問題ではあるけれど、もしかしたら、彼女が 何か知っているかもしれない。
「遼子です」
 静かに響くその凛とした声は、あの風と森の村の、清々しい木々の姿を思い出させた。騒がしい大学の構内にいながら、翼は、あの森と、そこを吹き 抜ける風を感じたような気がした。
「ええ、お伺いしています。お二人とも、とてもお元気で、そしてお幸せそうです。戻りたくない、というより、ここで暮らしたい、と思っておいでな のだと思います」
 翼は返すことばが見つからなかった。遼子さんは、それを決して悪いことだと思っていないらしい。
「ご家族で、一度お越しになって、お二人の生活をご覧になってみてください。どこでどう暮らすのが幸せと感じるかは、お二人がご家族と話し合っ て、お決めになることだと思います」
 そういわれてみればそうだ。祖父母は、僕たちの扶養家族じゃない。年金と九州の家を売った資産で、自分たちで充分暮らしていけるだけのゆとりは ある。東京に出てきてから、あまりにも静かに、自己主張しなかったから、僕ら三人に付属するワンペアのような気がしていたけど、二人で生きてたっていいん だ。でも、病気は?介護は?いや、遼子さんのような方がいるところで過ごすほうが幸せなのか?こっちだって緊急医療体制は万全なのに。

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