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第一章 秋の章「温泉地の秋」

12.新世界へ(その2)

「私は、荒木を辞めさせることはできません」
 語り終わった圭吾は、うなだれていた。
「でも、代わりに私が辞めたとしても、何の解決にもならないのはわかっています。荒木は、孝志君のことで、何度も福祉事務所や児童相談所に行った といいます。奥さんは暴力に耐えかねて、普段は妹を連れて実家に避難しているそうです。私は、彼のために、何もできないのでしょうか?いえ、あの惨状を知 りつつ、彼に退職を勧告することしか、できないのでしょうか?わたしは、そんな非人間的なことはしたくない。でも、荒木は、孝志君のことは、死んでも誰に も言わないでくれと懇願しました。もちろん社内では表に出せません。このことは、私は家族にも話していません。香成さん、あなたが初めてです」
 香成は、圭吾の手をとった。そして、静かに圭吾の目を見た。
「苦しんでいらしたのですね」
 その目には涙が浮かんでいた。圭吾は、彼に手をとってもらいながら、自分の苦しみや悲しみが、まるで吸い取り紙に吸い取られるように、いつのま にか薄くなっているのに気がついた。それは不思議な感覚だった。暖かく、柔らかい膝の上で、いつまでも泣いていてもいいのだと許されたような気がした。圭 吾は、しばらくそこで泣いていたのかもしれない。一瞬のような永遠のような時間が過ぎた。だが、次に正気になったとき、圭吾はもうその悲しみを乗り越えて いた。

「取り乱してすみません。でも、なんだか、気分が軽くなっています」
「誰にも話せないでいることは、心を重くするものです。おそらく、荒木さんも、あなたに状況を理解してもらって、きっと心が軽くなったと思います よ」
 いや、自分は香成ほどには、人の悲しみを軽くはできないと、圭吾は感じていた。
「しかし、あなたは、本当に不思議な方ですね。どうしてそんなに人のこころがわかるのですか?」
「いえ、わかるわけではありません。ただ、わたしも、無くしてきたものがありますので・・・」
 またあの、悲しくて優しい笑顔を見せた。圭吾は後悔した。
 香成は、新しいルイカを二台、出してきた。何か設定を変えているらしい。しばらく作業して、それを圭吾に渡した。
「これを、あなたと、孝志君で持ってください」
「え、荒木ではなく、私と孝志君?」
「そうです。あなたが、彼とこれで会話するのです。これは、僕とあなた、そして孝志君にだけしかつながらない仕組みになっています。僕はほとんど 表には出ませんが、もしかして何かお手伝いすべき事態になったら割り込みをかけます。どうか、これで彼と話してください。そして、彼のこころの中に入り、 お父さんとの関係を見直すきっかけを作ってください」
「わたしに、そんなことができるのしょうか?」
「できます。いえ、あなたにしかできません。全国に不登校児は十三万人もいます。自分を表現する方法がわからずに暴力をふるう子どもも多く、その 家族はみな苦しんでいます。合わせたら五十万人以上のひとが、この問題で苦しんでいるのです。あなたと孝志君は、これで新しい世界を開けるかもしれませ ん」
 圭吾はルイカを眺めた。あの孝志が、これで会話してくれるだろうか?まず、どうやって手渡せばいいのだろう?外はもう夕闇が迫ってきていた。深 い紫のたそがれのなかで、工房のオレンジ色のあかりだけが、かすかな希望のようにあたりを照らしていた。

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