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第一章 秋の章「温泉地の秋」

7.蕎麦屋(その1)

 町の中をかなり歩きまわって、確かにみんな、どこかでお茶でも、という気分ではあっただろう。でも、翼のお蕎麦の提案にはちょっとびっくりしたよ うだ。まあ、みんな麺類はキライではないので、遼子さんに連れられてお勧めの蕎麦屋へ行くことにした。十一時前だというのに、店はかなり混んでいる。
「共感ボタンの数がかなり多いなあ。観光客だけじゃなく、地元の人にも指示されておる」
 祖父はしっかりルイカでデータをチェックしている。もちろん最初は日本酒を頼む。店員さんが祖父の顔を見て、にっこりする。
「うちのお勧めです。どうぞ」
 小さな青いすりガラスの冷酒瓶は、宝もののように大事にテーブルに置かれる。白い磁器の冷酒杯も、丁寧に扱っている。
「器を大事にするお店は、食べ物もお客様も、大事に扱っているのよ」
 祖母が母に耳打ちする。母もうなずいている。祖父と父は、漬物を肴に、極上の日本酒をちびりちびりとやっている。もちろんルイカで写真をとり、 「幸平さんの日本酒講座」を更新することも忘れない。運ばれてきた山菜蕎麦は、本当に美味しかった。麺は薫り高く適度な歯ごたえがあり、つゆは最後まで飲 み干せる上品な出し汁だった。山菜も、よくある外国製のパックではなく、この土地で採れた山菜やきのこが使ってあるとメニューに明記してある。地産地消が 行き渡っているのだ。翼は、でも、遼子さんと一緒に食事をできることがただただ嬉しく、彼女がおろし蕎麦を食べるのができるだけゆっくりだといいなと思っ ていた。
「あら」
 不意に彼女が玄関に注目する。あの子連れの一家が入ってきたのだ。遼子さんは、彼らを視野には入れながら、でもそ知らぬふりをしている。何か必 要があればすぐに手伝えるだけの心の準備をしながら、でも、そうなるまでは基本的に自分からは邪魔をしないという態度だった。
 親子は店員に何か話し、メニューにルイカを向けた。どうやら、ルイカの中には、その食物アレルギーの男の子が食べても大丈夫なメニューだけが掲 示されているらしい。男の子はしばらく考えていたが、自分でルイカの中から食べたいものを選んで、店員に告げた。店員は笑顔で男の子に対応していた。男の 子は、ちょっぴり誇らしげだった。たぶんこれまでは、レストランに行っても、食べたいものが食べられず、きっと悔しい思いをしていたに違いない。自分で何 かの意思決定をするという行為が、ほんのわずかの情報不足からできないでいるひとたちが、ほんとは世の中にはたくさんいるのかもしれない。おばあちゃんも 体調が悪かったときは、塩分やカロリーを気にしてほとんど外食できなかったもんな…。男の子に運ばれてきた特製天ぷらうどんは、美味しそうだった。傍目に はわからないけれど、たぶん卵を使っていないのだろう。これだって、ユニバーサルデザインの一種かもしれないな。家族はみな、楽しそうに食事をしている。

 祖母が、突然翼たちに告げた。
「わたしはここで暮らしたい。今の遼子さんみたいな、気配りのある街で暮らしたいの」
 いきなり本題に入って、翼たちはなんと返事をしていいかわからなかった。祖母は続ける。
「東京では、おまえたちと暮らせるのは嬉しかった。でも、まちの仕組みそのものが、疲れるのだよ。人はたくさんいるが、必要なひとにはめぐりあえ ない。遼子さんのように、いつも誰かが、そっと影から見守っていてくれるという気配もない。そして、私を必要とする人にもめぐりあえない」

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