春の憂い
なぜかいらいらする。更年期障害の走りなんだろうか?もっとゆったりと生きていきたいのに、どうしてこんなに追われている感じがするのだろう。
先月からずっと風邪を引いている。しつこい咳がなかなか抜けない。先週診てみらったら、またマイコプラズマ肺炎だという。年に数回、これにかかってしまうのだ。今日からしばらく出張するというのに、咳止めの薬が切れてしまった。荷物を持って病院へ行く。
「お薬だけでいいのですが」
「風邪の方は診察が必要ですので」
「そうですか、でも10時20分には出たいのでよろしくお願いします」
まだ予定の新幹線には1時間以上ある。いつもよりすいているし、大丈夫だと踏んで待合室で雑誌を読んで時間をつぶした。20分、30分、次第に不安になってくる。45分。もう限界だと思って立ち上がった瞬間に名前を呼ばれた。やむを得ず診察室へ入る。
「すみません、50分の新幹線に乗りたかったのですが」
医師はあっさりと言う。
「おや、そういう方は薬だけと言っていただいてもいいのですよ」
結局、診察といっても形だけで、ダッシュで部屋を出た。しかし、会計でまた待たされる。そしてレセプトをやっと受け取って近所の薬局へ。やれやれ。だがここも鬼門だった。
私の前には2人しかいなかったのですぐかなと思ったのに、10分待っても呼ばれない。ついにしびれをきらして受付に聞いてみる。
「すみません、順番に処理していますので」
どうやら5人の薬剤師は、前のおばあさんの投薬で悩んでいるらしく、大きなビンの前で議論をしているらしい。なんとか順番を先にしてもらって咳止めをもらった。330円。
その後の電車、JR、それぞれに少しずつ遅れて、結局乗りたかったこだまの次のにも乗れず、新横浜で25分も時間待ちをすることになる。仕方がない。どこかで原稿書きの仕事でもしよう。新幹線の待合室に入る。大音響でJR東海のコマーシャルが、繰り返し繰り返し流されている。とても集中できる環境ではない。これではホームの方がマシだと判断してまた上へ上がった。しかしこの待合室も、次々と入ってくるひかりやのぞみの案内で騒がしい。どうやらJRには、空港のエグゼクティブラウンジのような、待ち時間で仕事をさせてくれる感覚はないものらしい。
結局40分遅れのこだまで静岡へ向かっている。たった15錠の風邪薬のために病院で45分、待合室で25分を費やした。時給に直すといくらになるだろう?しかし、だんだん、この計算そのものも、ばかばかしくなってきた。外はいいお天気だ。桜もまだ残っている。私は時間泥棒に時間を盗まれてしまっているのかもしれない。病院で、薬局で、私はいらいらしていた。一日が無限にあるようなシニアや主婦と一緒にしないで、急いでいる人を優先させるユビキタス技術ってないものかしらと、焦りながら考えていた。新幹線の待合室で、無くした時間の単価計算をしていた。思えば、なんという空しい行為だろう。死んだ子の年を数えるとか、こぼれたミルクに泣くのと同類ではないか。
ITが進むにつれて、私はゆとりを無くしたのかもしれない。乗り換え案内で印刷したとおりの電車に乗れないといらいらし、病院や銀行で30分も順番を待つのが苦痛になっている。振り回されない。生活者の時間軸で生きる。そう決めて在宅で起業したはずだったのに。私は時計をはずした。今日は目的地に着くなりエッジでネットに接続するのはやめよう。半日くらい返事を待たせて消えるような仕事なら消えればいい。山あいにほのかに白い花のかたまりが見える。山桜だ。季節を自分の身体で感じ、その思いのままに花を咲かせる。そんな自然な生活を、もしITが奪っているのなら、私がITを使うのを止めるまでだ。駅に着いたらやってきた次の電車に乗る。メールは時々見る。待合所ではネットではなく人を見よう。ユビキタスな環境は、私に命令するものでも、時間を奪うものでもない。制御感。自分の人生を自分でコントロールしているという実感。それを与えるためのものだ。私の人生の主人公は私である。ITではないのだ。
朝のいらだちは消えていた。自然に、ゆっくりと、年をとっていきたいと思う。
〜4月初旬に〜