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人間を幸福にしないITという社会

ITが進む。それは進歩のはずだった。でも私たちは、それで幸福になったのだろうか?パソコン通信を始めた93年ごろ、全盲の人とろう者がネットで自由に会話するのを見て、ITの可能性に驚嘆したものだった。だが今その思いは、溢れる情報の洪水の中で輝きを失おうとしている。ネットは時間を奪い、本来願っていたはずの人を結び付ける力を弱めてしまう。これは、私たちが夢見た未来だったのだろうか?

■見落としたメールの深刻さ
先日、友人を失った(ような気がする)。毎日数百通にのぼるメールの中で、その人の手紙を読み損ねた。何かの拍子で、その次のメールから開いていたのだ。「神経難病にかかった一人息子のPC入力について相談したい。」地方から時間を作って会いにきてくれるというのに、わたしはその手紙に気づかなかった。「無理なら返事はいらない。」と控えめに書かれていたのが、事態を深刻にした。積み重なるメールのなかに、彼の思いは埋もれた。

出張が相次ぎ、電話連絡もとれないまま、その人とは結局会えなかった。ずっと後になって、そのメールを開いた私は、息が止まりそうだった。この思いを、受け取ることができなかった自分が悲しかった。
こんなに毎日多くのメールを受け取っていなければ、もっと事態は簡単だったのかもしれない。インターネットを使い始めた頃、毎日メールが来るのが楽しみだった。今では朝、メールボックスを開けるのがこわい。自分も朝の3時までメールを打ちつづけているのだから同罪なのだが。日本や海外のどこにいてもメールは届き、仕事は無限に増えつづけていく。1日は24時間しかなく、私には生物としての限界がある。

■あふれる情報の中で失うもの
この洪水の中で、大切なものを見失う。障害をもつ人々が、わずかな指の動きだけで何時間もかかって打ったメールも、業者から大量に送られるジャンクメールも、すべて同じに見えてしまう。かつてはそれが平等の証のように思えた時代もあったのに。自分にとって「重要な」情報を洪水の中から選び出す方法は、今のIT技術には無い。タイトルに相手が付けた「重要」マークは、自分にとって重要でない情報だというパラドックス。
Webも同じだ。95年に障害者支援技術のDB「こころWeb」を始めた頃、マスメディアでは不可能だった「必要な人に必要な情報を届ける」ことができる道具を手に入れたと思った。今では溢れるサイトの中から、自分に必要な情報を選ぶことは難しい。検索サイトは膨大な量の候補を挙げ、市民が発信するささやかなサイトより、企業など資金力のあるサイトのほうが上位に来る。
難病の子を持つ親たちのネットワーキング、ユニバーサルデザインのものづくりを推進する意見交換の場、行政と市民を結ぶコミュニティの形成など、IT社会が進むことで市民が発言力を持つ社会を夢見て、いくつものサイトを支援してきた。今では、ITはビジネスの道具と割り切る人ばかりが目につく。

■我々が望んだ未来
ブロードバンドだ、IT講習会だと、世の中は狂騒状態だ。ITが使えれば、言いたいことを発言できるようになると、障害者や高齢者のIT利用を励ましてきた私には、望んだ社会が来たはずだった。だが、わたしの気は晴れない。難病の子供を持つ友人の思いを受け取ることができなかったIT社会を憂う。なにか、大切なもの、かけがえのないものが、こぼれおちていくような気がする。自分にとって、相手にとって、どうしても伝えたい思い、読んでほしい願いを、届けることがITの役割だったはずなのに、なぜこんなことが起きるのだろう?これは、われわれが望んだ未来だったのだろうか?
20世紀の科学技術が、人を幸福にしようとしながら、原爆や水俣病を引き起こしたように、21世紀のIT技術が、人の思いをつなぎたい、伝え合いたいと願いながらも、その本質を変化させてしまうことを怖れる。IT技術者にも、ビジネスセンスだけでなく、歴史観や倫理観が求められる時代が来ているのかもしれない。
ITにかかわっているみなさん、あなたの仕事は、誰かを幸福にしていると、自信を持って言い切ることができますか?

- 2001年2月15日 「NIKKEI NET」ITニュース面コラム「ネット時評」 -

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