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ITへの拒否感の底にあるもの

先日、ある人の逆鱗に触れた。留学中のお嬢さんとFAXでは連絡がとりにくくて、とこぼすのを聞いて、つい「メールだと便利ですよ」と言ったのがいけなかった。ITが栄えたら日本文化は滅びるんだ、と、2時間もお説教されるはめになった。

■「日本が滅びてしまうじゃないか」

 彼は、あるジャンルの日本文化の継承者である。社会の動きに無頓着なわけではない。70を過ぎたお父さんがネットで情報検索をするのを素晴らしいとたたえ、留学中のお嬢さん自身がメールを使うのもOKだ。常識として、ITそのものを否定しているわけではないのだ。ただ、自分が使うということを除いては、だが。

 「子供たちがゲーム機に夢中で友だちと会話もしない。若者たちは一緒にいてもおしゃべりもしないで携帯電話のメールに没頭している。日本語は乱れるし、ものごとを深く考えることをしなくなる。ネットを成熟した大人やシニアが使うのは賛成だが、子供や若い世代になんか使わせたら、日本が滅びてしまうじゃないか」

 ご本人はもう50をすぎているのだから、成熟した大人のほうに入るんだし、自分が使わない理由にはなってないんじゃないかなあ、と思いつつ、拝聴していた。どうしてこんなに激しく抵抗なさるのだろう?このような主張は、かつて文部省などの委員会でもかなり根強かったような記憶がある。

 たしかにわたしも、子供たちがゲームにはまって体を動かさない今の風潮や、若い人の携帯電話のマナーには、少なからず反感を覚える。しかし、仕事中に麻雀ゲームをするおじさまも、使い始めた携帯電話で大声で会話するおばさまも、似たようなものである。日本そのものが、ITのマナーというものを知ることなく、IT化が進んでいることが本当の問題なのだと思っている。

■「変わりたくない思い」から「変わらぬものを伝える道具」へ

 しかし、彼の話を聞いているうちに、この人のこころの底の声を聴こうと思った。立場も能力も、もちろん財力もある人が、なぜITにここまで反発するのだろう?それは、この人の中に、進みすぎる技術への拒否感があるからではないかと思えてきた。使い方を覚えることはもちろん可能だ。だが、もし覚えてしまうと、それ以降の自分が別の感覚で生きることを肯定せねばならない。それを拒否しているのではないだろうか?

 ワープロソフトが普及して、私は漢字が正しく書けなくなった。私はもう「紫陽花」や「蜻蛉」などの漢字を楽しんでいた中学生には戻れない。ネットで検索をすることが普通になって、時刻表を買うこともなくなった。もはや私は、地図と時刻表で仮想の旅を楽しんでいた高校時代にも戻れない。そう、たしかに私はITを使うようになってから、別の私になったのだ。

 景勝地で歌碑を見つける。子規や晶子のうたが、その達筆さゆえに、もう私には読めない。芭蕉や一茶ならいざしらず、たかだか数十年前に文化人と呼ばれた人々の書いたものを、今の大学生は読めるだろうか。これを、文化の断絶と言わずして何といえばいいのだろう。「つるの恩返し」よりも「みにくいあひるのこ」のほうが、子供にはなじみが深いのだ。

 少数民族の言葉や習俗は、今や希少生物と同じように絶滅寸前である。自らのアイデンティテーのためにITを使わない、自分を変えたくない、という拒否感を持つことも、一つの見識であるかもしれない。しかし、進むIT社会をとどめることができないのならば、それに背を向けるのではなく、固有の文化を正しく伝えるための道具、各地方の風土や言葉を後世に残すための道具として捉えることも必要だと思う。

 重い発話障害のあるただ一人のことばを受け止めて誰かに伝えるIT技術が存在するように、その人の使える言語や入出力で利用できるIT技術もこれからの課題だろう。限りなくマクロを目指してきたITが、もう一度ミクロを目指して、各人の思いや文化を受け止める技術となることを願う。そしてそのときは、このおじさまにも、使っていただけますように。

- 2002年3月5日 「NIKKEI NET」ITニュース面コラム「ネット時評」 -

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