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日経ウーマン・オブ・ザ・イヤーを受賞して

思いもかけないことだったが、今年、ウーマン・オブ・ザ・イヤー2001 http://www.nikkeiwoman.net/の7位をいただいた。これは、日経ウーマンという雑誌が主催するイベントで、これまでにも多くの女性たちを発掘してきたものである。初年度は、i-modeの松永真理さん、2年目はハリー・ポッターを訳した松岡佑子さんが一位だったそうだ。 私は畏れ多くも、ネット部門の2位をいただき、総合順位でも7位にしていただいた。自分の知らないところで、どなたかが推薦してくださったのだと思うと、夕日に向って頭を下げたい気持ちになる。そして、誰にも評価されなくてもいいと、自分の信じる道を進んできたことが、無謀ではあったけれど、決して間違いではなかったのだという思いにもつながっていく。

思えば3年前、98年の春、私は自分の進退を考えて、眠れない日々を送っていた。最初から多様なユーザーに配慮するユニバーサル・デザインのコンセプトこそ、今後の日本にとって必要なものだとわかっていた。でも、IBMの中にいては、それを推進することは当時は困難に思われた。だからといって、出て行ってどうなるというのだ? 会社を興して、果たして食べていけるのか? 理想だけで生きていけるほど、世の中は甘くないのでは? 大会社の社員として守られてきた自分が、もう一度ゼロからやり直せるのか? 限りない不安と、引き留めてくださる多くの好意を振り切って、それでも独立してしまったのは、私が本来、組織に向かない人間だったからかもしれない。当時、親交のあった通産官僚がこういったものだ。「関根さんがIBMを離れるというのは、野獣を野に放つようなものですね」おそらく当時から、国の委員会でも吼えていたのだろう。今では、最高のはなむけの言葉と思える。市民科学者として在野の人生をまっとうした高木仁三郎氏のように、わたしも市民研究者として、生活者の視点からの情報発信を行いたかったのだ。

一匹狼で生きていくのは、足元を波がさらっていくような不安もあった。開業してから、電話もメールも来ないときは、将来を悲観もした。だが、お金には換算できない「思い」を仕事にしていくうちに、お金は後からついてくるようになった。つくづく、周囲に恵まれていたのだと思う。 数年後、会社がどんなになっているか、私にはわからない。社会がそれを必要としていれば、存続しているだろう。いや、むしろ、役割を終えて消えてしまうほうが、日本にとっては良いことなのかもしれない。障害があっても高齢でも、気兼ねせずに楽しく生きられる社会が到来したということなのだから。そのとき、私はどこか静かな温泉地で、野菜を作って生きていこう。自分の思いが成就したことを感謝しながら。

今年の大賞を受賞された、小布施のセーラ・マリ・カミンガムさんは、33歳のかわいいアメリカ人だが、造り酒屋の役員としてまちづくりに奔走している。古い日本の美しさを愛し、それを世界に新しい感覚で紹介している。異質な世界に単身で飛び込んでいくのは、無謀かもしれない。でも、無謀だからこそできるのかもしれない。そして、新しい風が吹くことで、やはり何かが変わるのだ。そしてそのささやかな何かを変えるために、わたしたちは存在するのだと思う。

-2002年1月  日本IBM Women's Column -

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