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ベンチャー企業になって思うこと

1. はじめに

弊社は、いわゆるインターネットSOHOとしてコンサルティングやWeb製作を請け負っている企業である。設立は1998年10月で、資本金は1000万円。自宅をオフィスとし、2名の正社員(まもなく新卒2名追加予定)と50名を越す登録スタッフをネットでつないで仕事をしている。

私はそれまで、18年近く日本IBMで製品企画に携わってきた。最後の6年間は、国内のコンピュータメーカーとしては初めて、障害者・高齢者向けシステムの相談センターを開設し、製品の企画や普及を行なっていた。IBMでできることはすべてやってしまったという思いと、自分の培ってきたノウハウをもっと日本の他の企業と共有したいという思いから、独立を果たしたものである。

2. 独立時の状況

独立に当たっては、会社からは真剣に引きとめられたが、最後は社長も納得し祝福してくれた。IBMのような外資では、独立は「卒業」と呼ばれ、それほど珍しくはない。しかし、終身雇用に慣れた日本の企業人からは、やはり「都落ち」のような印象で迎えられたのは事実である。

「情報が無くなりますからがんばってくださいね」
(筆者:インターネットでつながっている人脈のほうが多いのだから心配ないのに)
「おかわいそうに、ご自宅で開業、まあそれは大変」
(筆者:主婦の内職のイメージなのかな、コストも少ないし通勤無くて理想的なのに)
日本の情報産業に風穴を開けてやろう、と意気込んで独立したのに、組織でなければ何にもできやしないと思いこんでいる大企業の社員に対して、説明は時間の無駄だと感じたことも多い。これではなかなかベンチャーになる勇気は持てないだろう。今でも、わたしがどんなに今の仕事の話をしようとしても、IBM時代のことしか聞いてこない人もいる。元××、という部分しか見えていないのである。また、もう関係ないということが理解できず、今のIBMをどう思うかと聞いてくる人がマスコミに多く、これではベンチャーに好意的な記事など書けないだろうと思うことも多い。

開業に当たっては、会社の作り方を本で読んで勉強し、全部一人でこなした。屋号の決定から設立登記までは、なかなか楽しい作業であったが、もう少し情報化してほしい。コンピューター登記というからオンラインでできるのかと思ったら、ワープロ出力をOCRで読ませるだけなのである。これでさえ、まだ始まったばかりと聞いて絶句した。

他の創業者が苦労するという銀行の株式引き受けも特に問題は起きなかった。ただし、銀行については、苦い思いがある。IBMで借りていた住宅ローンを、一括返済しろというのだ。私は新会社の企画書をもって某信託銀行の本店に直談判に行った。与信限度は問題ないはずだ。ちゃんとした資金計画もあるのだから、退職金を原資にこのまま個人ローンに変更させてほしいと説明したのである。

しかし担当者は即金で返せと言い張った。最終的には、連れ合いの連帯保障を取ることで解決したが、これは結婚以来、完全に独立採算で生活してきた私と連れ合いにとっては、かなり苦渋の選択だった。これが日本の常識だとしたら、ローンが残っている男性は、奥さんにかなりの収入がなかったら絶対に最初の会社から離れることなどできないだろう。銀行は私個人ではなく、IBMという企業に金を貸していたのだと思い知った事件であった。

3.起業後の変化

会社を起こしてからは、それまでの人脈から、次第に仕事の幅は広がっていっている。覚えていてくださって、声をかけていただけるのは、ありがたいことだと思う。会社を辞めたときに、すでにIBM以外の方の名刺が1500枚くらいあったが、それが私の最大の資産であったと思う。人脈と志、ベンチャーにはそれしかない。

わたしは独立した際に、独立後2年間は、IBMから仕事を受けないことを決めていた。会社を辞めてから古巣の周りをうろうろするのは、あまりかっこよくないと思ったからである。社外で通用する実力がなかったら、辞めた意味がない。元の企業は、わたしがいなくてもやっていけなくてはならないし、一緒に仕事をしたほうがお互いのためになると分かった上で仕事を頼んで来るまでは、痩せても枯れてもこちらからは「仕事を下さい」とは言わないでおこう。そう考えたのである。しかし、リレーションが悪かったわけではなく、いまだにかつての同僚や引きとめてくれた役員とは仲良くやっている。今の仕事で培った人脈を、いつかIBMとつなぐことでお返しできればと思っている。

仕事内容としては、2つの事業部があるが、まずは家電や情報通信業界の中で、「使いやすさ」「ユニバーサルデザイン」の観点からコンサルを行なっている。クライアントは、松下、シャープ、ソニー、リコー、キヤノン、日立などである。大学や学会とのつながりも多い。また、障害を持つ方や高齢者に見やすいWebクリエーションも事業の柱の一つで、通産省や科学技術庁などの外郭団体からの仕事も多い。いずれも、障害を持つ社員や高齢の登録スタッフが非常に高いスキルを持っていることから差別化できているものである。生活感覚に密着しながら在宅から発信される個々人の情報が、企業にとっても大切な時代になることを期待している。

4.ベンチャーとして困っていること

大企業の中にいたときにはわかっていなかった、人事や労務、経理に財務といった仕事がいっぺんに押し寄せてきて、事務作業に追われる日々もあった。今はインターネットで相談やデータを送ることが可能な税理士と社会保険労務士に作業をほぼ外注しており、少しは事務作業量が減った。しかし、役所に出す書類が電子化されていて、インターネットで提出できればどんなに楽だろうと思うことが多い。

例えば、労働省の創業者支援の雇用創出助成金などを申請しているが、これは本当にベンチャーが申請するために作られた制度なのだろうかと悩むことがある。役所の中で、ベンチャーや情報通信が理解されていないことから来るフラストレーションは計り知れない。書類の山、それもひどいときは3日で差し替え、ちょっと役所に顔を出さないと、もう書類番号が変わっていて、苦労して書いた書類を、違うからこっちに書きなおして、と言われ、、、紙資源と労力の無駄使い以外の何物でもないと怒ることが多い。また、障害者雇用も助成金の対象になると言われ申請したが、大企業が受けるものだと思いこんでいる担当者に、ベンチャーだけど雇いたい、という意図を理解してもらうのに苦労した。シニアベンチャーや障害者ベンチャーを増やしたいと思っているのであれば、本人にも助成が出るような措置も、必要かもしれないし、申請をもう少し楽にしないと、行きつくまでが大変すぎると思う。あきらめてしまう創業者も多いだろう。

5.仕事の受け方に関して

わたしもさまざまな場面に声をかけていただく機会が増えたが、やはりどこかの外注先としての仕事が多くなる。電通や博報堂、また大企業が受けたものを、実際はわれわれが内容を詰め、モニターを人選し、調査検討を行ない、データを集計してレポートにしているのだが、表紙には大企業の名前だけが出る、という経験も何度もした。○○総研とかいう名前だけで国や企業は仕事を出すのである。それが日本だと割り切ってしまえばいいけれど、実際には何にも現場を知らないその企業の担当者を教育しながら、ありったけの情報を渡して作った成果物に、自分たちの名前が全く出ないというのは残念である。

まあ、これは、通産省などの委員会で、どんなに長い時間ボランティアで働いて指針の策定や法改正の内容決定に尽力しても、省の公式ホームページに名前が出るのは最後の2時間の親会に出た大企業の役員だけ、という構図によく似ている。この偉いさんたち、本当は何にもしらないんだけどなあ、と思いつつ、裏方に徹するしかない。ベンチャーを全面に出すという意識そのものがないのだと思う。しかし、当然のことながら、間に入った企業は上前をはねることで生きているのであって、税金としてはもったいないかもしれない。

これを阻止するために、わたしは自分の価格表をホームページで公開している。講演1回いくら、コンサル料は1時間3万円、コンセプトデザイン1件300万円から、といった明朗会計でクライアントに見せている。某社から苦情が来たことがあった。こんなものを公開されると、弊社が3倍以上とっているのがはっきりするから困る、と。これもベンチャーによる価格破壊の一種かもしれない。

6.日本にベンチャーを根づかせるには

まず「就職」ではなく「就社」になってしまっている現状を変えることである。自分が本当にやりたい仕事をまず探し、それを実現するために会社を代ることだってあっていい、という生き方に対し、社会の認知度を高めることだ。名刺ではなく、人物で人を評価することが、できなくなってしまっている現代社会は、不幸なものである。

また、社外人脈を作ること、社外で通用するスキルを身につけることに、社員がどんどん自己投資できるような環境を作ったほうがいい。社内でしか通用しないスキル(例:課長ができます)などは、外では食えないのである。引く手あまたの人材は、その企業でも重用されるはずだ。生涯学習の場は、日本では高齢者のカルチャーセンターのようになってしまっているところもあるが、本来スキルアップのための場としてもっと活用されていい。

ただ、本当に役立つクラスがなくてはならない。いくつかの大学で非常勤講師もしているが、日本の大学の講義というのは、どうしてあんなに実社会では役に立たないのだろう?受けるだけ時間の無駄、というのでは向学心も湧かない。また日本の長時間労働と長時間通勤とで疲れ果てて、これ以上勉強する気にもなれないだろう。都会のビジネスパーソンは社会の変化や世界の多様性に目を向けるヒマも気力もない状態に飼いならされているような気がするときがある。

また仕事のやり方も、従来のパターンにとらわれることなく、どんどん新しい企業に発注する方式に変えていくべきである。入札というやり方が本当にいいかどうか、考えることもある。少し高くてもよいもの、なのか、安かろう悪かろうなのか、わからないでものを発注するということが、果たして国民のためになるのだろうか?良くて安い、というものを、選んで選びぬいて購入する、その結果を国民に、きちんと公表する、という形で進めたほうがいい場合も多いのに、と感じる。まあ、これは私も自分で入札した経験がないので、詳しくはわからない。要するに、入札業者にもなれないので、協力した企業が金額で落ちてしまえば、われわれは全くノーペイという状況だからである。内容の良し悪しでは決まらない現状は、なんとも悔しいが如何ともしがたい。

7.終わりに

以上、言いたい放題、書いてきたが、学生時代から「起業する」ことへの面白さを知るというのは大切なことだろう。もう10年以上前に、LAに2年ほど滞在した際、聴講に通ったシティカレッジに、Businessというクラスがあった。ビジネスマナーでもやるのかと軽い気持ちで参加した初日、わたしはあせった。各人がマイクをもって、自分は何年後にはどこでどんな事業を起こすのだと、自己紹介をするのである。定年までIBMにいるつもりだった自分は、何にもしゃべることがなくて困った。事業内容も、ミセスフィールズがいかにしてクッキーで億万長者になったか、というケーススタディが主だったのである。日本の経済学の講義とちがって、スリルに満ちた内容だった記憶がある。

また、ボランティアとして働いていた老人ホームで、重度障害のカップルの世話をしていたのだが、ある日、カタログを見せられた。
「ねえ、Chika,僕はここで宝石を売る商売をしているんだ。安くしとくけど、どう?」
「あなたが?ここで会社を????」
「そんなに驚くなよ、電話とFAXさえあれば、どこでだって会社は起こせるさ」
重度障害者が老人ホームで軽々と起業する姿に、わたしはビジネスを起こすということが、ものすごく大変なんだという刷りこみを捨てたのだった。組織に属していなくても、自分は自分。できる範囲で、やりたいことをやればいい。あのときに、今のわたしのベンチャー精神が根づいたのだと思う。気軽に、もっと楽しそうに起業する若い世代やシニアベンチャーが、日本でももっと増えることを願ってやまない。

- 2000年2月 -

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